独立起業から20年。
地元で生まれ育った一人として、工務店の代表として、そして、3人の子どもを持つ父親として。
20代30代のこれからの世代が幸せの暮らしを願う想い、
そんな想いのもと走り抜けて20年経った今、
成人した子ども、寄り添ってくれた妻から送られたメッセージとは?
私、代表の德田義則が、今の住まいづくりをオススメする理由、きっかけを綴らせていただきました。
少々長文になりますが、
これから大切な家づくりを任せるパートナーがどんな会社、どんな人物かを伝えることは
とても大切なことだと想い、本音を書かせていただきましたので、お付き合いいただけましたら幸いです。
このままでは、ダメになる。
1963年7月13日。
福岡県甘木市(現朝倉市)に生まれた私、德田義則はごくごく普通の少年でした。
引っ込み思案な所もあり、街で家が建つと当時は「上棟式」という近所の方々を招いて餅まきをする儀式があったのですが、餅欲しさに参加するものの、子どもの身長では大人には全く歯が立たず、結局何も持ち帰れず落ち込んで帰ったのを憶えています。
そんな少年時代を思うと、将来このようなカタチで建築に携わるなんて、ましてや創業して20年も商売をさせていただけるなんて、人生って不思議なものです。
私の初めての就職は、実は建築ではなく、製造業への就職でした。就職か、大学か。学歴という言葉を聞くようになった時代ですが、高校を卒業した私は「学歴なんて関係ない、スグに働いて成果を出したい」そんな想いから就職を選択。就職先に特にこだわりはありませんでした。そこで、1年、2年、3年。とにかくがむしゃらに働き、スキル・経験がついてきた5年目の頃、ある事実が発覚しました。
私より、後から入った大卒の新人の方が給料が高い!
・・・お金の話ですみません(笑)でも、当時世間知らずの私にはショックな出来事でした。スキルも経験も負ける気がしないのに。
その頃から、心の奥底にあった負けず嫌いの芽がニョキニョキと伸びてきました。
「このままでは、ダメになる。」はカッコよく言い過ぎました。
「もっと稼ぐにはどうしたらいいか?」そんな風に考えはじめた若き日の德田だったのでした。
学歴がないなら、資格を取ろう。
どうやったら認めてもらえるか。
色々と考えました。
妻との結婚も控えていてすべてが同時並行。
その結果…結婚式の2週間前に転職するという今だとまず考えれない行動にも出ましたが、結果、その転職が前向きな人生を歩む第一歩となりました。
(その転職を後押ししてくれた妻にはとても感謝しています)
転職した会社は不動産会社。
認めてもらうには、資格の取得がわかりやすいと思い、仕事の傍らで資格取得の勉強に精をだしました。平成3年に宅地建物取引士(当時・宅地建物取引主任者)の資格を取得。
そんな時、私にあるミッションが訪れます。
それが私の建築人生にとって大きなターニングポイントになりました。
なにもわからないまま建てた、2軒の家。
そのミッションとは、新築住宅の建築でした。
それも、2軒。
なにもわからないままのスタートでした。
私は営業としてお客様の要望を聞き、建築士に伝える。建築士からの話をお客様に伝える。そんなやり取りをしてようやく2軒の家が完成。
「ありがとうございます!」
お客様には大変喜んでいただけましたが、私にはある想いが残りました。
…もっと勉強すれば、自分が建てた方がいい家ができるはず。
その想いは当分変わらず、平成4年に建築士の資格を取得し、本格的に建築への道を歩むことを決めました。ちょうどその頃、バブルがはじけ、同時期に転職をしました。今度の転職には、ある野望がありました。
(将来独立して建築会社をつくるんだ)
次なる転職先は、不動産と建築両方を手掛ける会社。
今のエステート工房に近い会社です。
そこで、8年間働き、いよいよ独立へ。
失敗を心配して、反対してくださる声もありましたが自分の夢を貫きました。
(ダメなら、またどこかで働けばいいじゃないと、ここでも妻の前向きな後押しに背中を押されました)
独立も、コネなし、客なし、地盤なし。
資格も取ったし、スキルもつけた。
いよいよ独立。会社も持った。
あの時の大卒初任給で私を超えていったライバルたちに負けないぞ!
まだ言ってる(笑)
「目の前のその方に一生懸命に」
この姿勢一つで新たなチャレンジに歩を進めました。
しかし、当たり前ですが独立したてでは、どんどん仕事が舞い込んで来るわけではありません。まずは、私を信じて仕事を任せてくださる有り難い仕事を全力で。そして、地元での知名度を徐々にでもあげていけるよう、やれることはやる! そんなスタートでした。
こういうサービスがあったらいいのではないか? こんな看板つけたらいいのではないか? 妻と共に朝から晩まで働き詰め。決して順調だったわけではなかったですが、今思うと、毎日が充実していました。
次第には「德ちゃん、德ちゃん」仲の良いお客様や協力業者さんからそのように呼ばれるようになりました。
ようやく、仕事が軌道に乗り始めた頃、もう一つの問題を私は抱えていました。
大切な家族との午後7時。
長女、長男、次男。
3人の父親としての役割は、会社の代表としての役割と同様、私の大切な役目でした。
個人的にも、家族が大好きで一緒にいる時間はホッとできるし、成長する子どもたちを横目にもっと楽しいことができないか? と思ってもいました。
ただ、時間はない。
そこで私は2つ、自分自身に約束をしました。
①ご飯は家族で食卓を囲んで食べる
毎日の午後7時。仕事の途中でも一旦家に帰って家族みんなで食事をとる。食事が終わったらまた仕事に戻ることもありましたが、夕食の時間は最優先で時間を作りました。
②季節のイベントを大切にする
入学式や運動会、特に子どもの節目のイベント、家族みんなが楽しみにしている行事は盛り上がるようにしました。
「あの時、背伸びしてずるしよっと」
柱に刻んだ子どもたちの身長記録は、20歳を超えた今でも話題の種です(笑)
次男・けいごより、当時の思い出について
「確かに父親は普段仕事で家にいなかったし、不動産は水曜日が休みだから、土日にどこか出かけた記憶はありません。
でも、それが一度も寂しいと思ったことはなかったです。
多分、そうやって父親がやってくれたのが大きいのだと思います」
この言葉は、嬉しいですね。
我が家は昔のつくりの家で、今の家に比べると、性能面では劣るかもしれない。でも、家族の思い出が詰まっている分、私たち家族にとってはかけがえのないものです。
家は、生活を支える、守る下支え。家族の幸せは、その下支えの上でどんな暮らしをするか? によって決まると思っています。
シンプル+「したいこと」
家だけでなく、その後の暮らし方に合わせた家を建てるエステート工房の提案の原点は、私の父親としての経験からつくられています。
リーマンショック。もうダメかと。
独立からここまでなんとかやってきた私でしたが、ちょっとやそっとではどうにもならない事が起きました。
全世界を不況に巻き込んだ2008年の俗に言う「リーマンショック」です。このことは、特に不動産業界には大きな打撃を与えました。
不況で家が売れない。
資金繰りは大丈夫か?
聞こえてくる、倒産する企業の情報。
いったい、この状況はいつまで続くのか?
見えないトンネルに不安でいっぱいの頃、あるお客様との出会いがありました。
德ちゃんに任せた!
それは、以前より私のことを「德ちゃん」と呼んでいただき親しくさせていただいていたK様でした。
K様のお宅に伺い、世間話と簡単な家づくりの相談をしていた頃、K様から「德ちゃんに任せた、頼むよ」とまだ細かい説明をしていない段階でお仕事をお任せいただいたのです。
さらに、目の前に現金をドンっと。
1000万円を超える建築資金をその場で現金でお渡しいただいたのです。
通常、建築時には、現金でお支払いの場合でも、着手金・中間金・完成金と3段階に分けてお支払いいただくことが慣例です。
それをまだ家を建てる前からいただく。経営的にもうれしかったですが、それ以上にそれだけのご信頼をいただけたということが、何よりの励みになりました。
・・・負けてはいけない!
・・・私を応援してくださり、救ってくださった方に恩返ししなければいけない!
そこから改めて、目の前の人を幸せにするエステート工房流、德田流の家づくりに拍車がかかりました。
奥様
「住宅展示場を何件も回ったけれど、希望の内容をその予算では無理です、と言われていたんです。でも、最後に、、、と思った見学会で德田さんと出会って聞けば、なんとかやってみますという回答が。嬉しかったですね。そして、なんと、みんなができないと言うことを実現していただいたんです。今の家族の幸せは德田社長のおかげです」
ご主人
「やっぱり家づくりは妥協してはいけないんだな、方法はとことん探さなないと、と德田社長との家づくりで感じました」
おかげでお客様からこのような声をいただけるようになり、このやり方に自信が持てるようになりました。
地元甘木に住まうこれから世代に幸せな暮らしを。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
自分のことをこうやって振り返るのは、恥ずかしいものではありましたが、改めて、決意できるものでもありました。
ここまで私を育ててくれた皆様、環境を与えてくれた地元甘木、そして、仕事ばかりの私を支えてくれた妻、励ましてくれた子どもたち、全ての人に感謝し、その感謝の気持ちと経験を、これからを担う、地元朝倉の若者たちの幸せな暮らしのために使いたい。
私の子どもたちも全員成人し、家族をもうける年齢になりました。嬉しいことに、長男が私のしごとに興味を持ち、地元を活性化させたいという想いで、跡継ぎになるべく現在修行を重ねています。
また、次男も自分の得意な分野を活かして、エステート工房に広報という立場で手伝ってくれています。
色んな人に支えられて前にすすむことができた人生はとても幸せです。これからも、たくさんの方の支えを頂戴することもあるかもしれませんが、地元で生まれ育った一人として、少しでも多くの貢献をしていきたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。
株式会社エステート工房 代表取締役 德田義則